湯槽

わたしにとって湯槽の中はひらめきと想像の場所なのだなあとしみじみ思う。今いる。湯に包まれ、体温が上がり、血が巡り、意味もない様々なことが頭のなかを行ったり消えたりする。

今日は昔のことを思い出した。今でも時々思い出す母との思い出だ。夜仕事な母が唯一休みの日曜日、母と一緒にいられる数少ない夜のひとつだった。小学生の頃だ。あのとき住んでいたふるーい家が懐かしい。夕飯のあと、母が『アルジャーノンに花束を』という本の話をしてくれた。小学生のわたしにもわかるように、あらすじをわかりやすく、丁寧に。母の語り口はまさに聞かせるためのものであり、話す速さや間の取り方、声の抑揚、台詞も聞いていてとても楽しい。その頃からだが、今でも小学校に出向いて朝のホームルームで読み聞かせをしている。昔から、娘もびっくりなパワフルなおばさんである(今年で51歳になるが根底ではわたしは母をおばさんだなんて一回も思ったことはない)。よく人を引き付ける話し方が身に付いている。いつものようにそれに聞き入っていた。最後の母の「台詞」が終わったあと、わたしはとても感動していた。ああ、アルジャーノン。ハッピーエンドばかり読みなれていた小娘には少し切ない終わりだった。今でもあのとき興奮したことは覚えている。

数年後、中学に上がってから本屋をうろちょろしていたとき、その本の文庫本を見つけた。もちろんずっと覚えていたから、二千円程度のおこずかいでも中身もチェックせずよろこび勇んで買った。(家にもあるとも知らずに)(BOOK・OFFにいけば100円程度で買えるとも知らずに)
新しい本ばかり求めていたわたしは書き口がちょっと古いなと思いつつも読んだ。母に「へえ  そこ(わたしの勉強机の真横の本棚)にあるのに」と言ってきて心くじかれながらも読んだ。


感想は、うん、そっか。
母からストーリーや結末を聞いていたから感動が薄れたのか、なんなのか。そのときのわたしには期待ほど響くものはなく、あーあ(中学生のおこずかいから出すには)高かったのに、で終了した。(今からすると読んでおいてよかった)

思い出してみると、わたしは、本のストーリーでなく、それを熱心に語る母の、感情が、本をそう感じた心がすきだったんだ。当時母の彼氏≧本>>>>>>わたしというヒエラルキーのもと生きてきたわたしにとって、例え本のことにでも熱心に心を注ぐ母の姿が、それを人に伝えようとする感情が、それにどう思い、どう感動したのかひしひしと伝わってくる母の語り口調が、すきだったんだ。興味関心を注がれていない(と思っていた)からこそ、生の感情が嬉しかったんだ。

ほんとはあのときの感動の涙は、そういうことなんだよって言ってみたいような……





(今からすれば本当に昔、人のことのように思える思い出の話でした。
しょっぱなからめんへらかっ飛ばしてしまってもにょもにょ)

アルジャーノンに花束を (ダニエル・キイス文庫)

アルジャーノンに花束を (ダニエル・キイス文庫)