まばたきをしない

勢いに任せてブログを始めてみた。特に伝えたいことはないのだけれど、書きたいことや書きたい気持ちはある、気が、する。自分の意思に鈍いのはわたしの常である。ツイッターの140文字にすっかり慣れきってしまったこの指も、たまには意味のないことをつらつらと書き連ねて感覚を掴むことはこれから役に立ちそうだし。


わたしは、自分の意思に問題から、逃げている。目をそらしている。考えないようにしている。不甲斐なくて、でも傷つきたくない。痛いのはすきではない。考えていても仕方ない。行動するしかない。まずはなにをすればいいのか、わかっている。目を、そらしている。
ぼーっとする、部屋を見渡す。ちょっとずつ開いたチェスト、昼間なのにつきっぱなしのキッチンの明かり、床に置いたフライパン。どうやらわたしはここにいる、ぼーっとする。足りないものについて考える。気力、意思、体力、その他もろもろ。ぼーっとする。


後悔をしている。後悔とも言えない、無感動な諦めにも近いなにか。絶望はしない。わたしは生きている。今も頬にあたる毛布が優しい。今すぐにでも、ベッドから降りようと思えば、降りられるのだ。わたしはベッドから降りられる。洗い物を片付けることができる。部屋を片付けることもできる。やろうと思えば、近所のケーキ屋にチーズケーキを選びに行くことだって、できる。でも、まだしていない。
何も考えられない。認識できない。目は役に立たない。


わたしはきっと今日中に洗い物をするだろう。いや、する。部屋も、それなりに片付けるだろう。掃除機だってかける。描きかけの絵だって描く。のろくても、お風呂に入って、寝る。外には出ないかもしれない。言ってしまえばどうとでもなる気がしてくる。だって今すぐにでも、できる体が、わたしにはある。淡い諦めも、なんでもないような気がしてくる。きっとどうにでもなる。何もできなくは、ない。


遠い、どこかを、思い浮かべる。天井の隅にでも吸い込まれて、別のどこかへいく。広がる山と、田と、夏の光と、田の水の上をかける少しひんやりした風と、濃い影。そこにいたときの、そのときの心を、再現してみる。そのとき「わたし」はいない。ただそのまま受け取り感じる心がある。過剰だったり婉曲したりしない、そのままを、受け取ろうとする。理解など、しない。世界は、わたしを取り囲み、全方向に広がっている。わたしの後ろにも世界がある。もうこれ以上世界を吸い込めない。肺の容量に限界があるように、わたしは、いっぱいに世界を吸い込んだまま、世界の一部しか取り込めないまま、静止する。まだ溶けない。まだ、世界に溶けはしない。





ぜーんぶ、お布団の中の出来事