感覚の話

年が明けました。また実家に帰りました。

実家はどちらかと言えば田舎で、それはまあ、空が広いです。
山も低い。
東京から高速バスに乗って数時間、低い山々の間を走ります。
その間は大概寝ています。

なのでバスを降りるとまあ空が広い。
空は水彩のような透明感で、よくこんな広さに色ムラなく綺麗に塗れるもんだと思います。

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遠くを見るのが好きです。
好きというのが正しいのかわからないけれど、海や山や空を目の前にすると遠くを見ます。
田舎で育ち、その間よく遠くを見てきました。

家から学校まで歩いて30分程、徒歩通学していた小学校時代はよく空を眺めながら帰りました。
雲が好きでした。
そして飛行機がたくさん通りました。
見つけると見えなくなるまでずっと目で追いました。
人も車も通らないのでちびが空ばかり見て歩いても特に何もありませんでした。

学校からは町を通り越した向こうに低い山々が見えました。
山には大きなゴルフ場と、ひとつ風力発電機がありました。
低くはあるけれど視界の端から端まで広がっています。
それらが低いと気づいたのは修学旅行で箱根に行ってからで、そびえる山々を見てこれが本当の山なんだわ、今まで見ていたあれは丘程度だったのねと小さいながらにショックを受けました。

家は歩いて行けるくらいには海の近くでした。
夏になるとわざわざ海水浴をしに遠くから人が来ましたが、わざわざ、と言ってしまうくらいには身近に共にありました。
湾になって波が落ち着いた、穏やかな海でした。
遠く水平線の向こうにはうっすら町が見えます。
冬晴れの日には綺麗に富士山も見えます。
寒い冬の朝に高校の渡り廊下から見えるそれは中々に贅沢でした。

来る日も来る日もそれらを見ました。

遠くを見ているとき、特に何も考えていません。
しかしぼーっとしているわけでもありません。
呼吸は深く吸い、腹に空気をため喉の奥を開いたまま止まります。
遠くの山の木の葉の一枚一枚をはっきりと見ようとしているわけではありません。
ある一点を集中して見つめているわけでもありません。
ただこのひとつの体で遠くを、世界を感じようとします。

遠く向こうの世界に頭を巡らせるわけでもありません。
きっとあの遠くの空の真下には別の街があって、人々がいて、それぞれの生活があります。
ここから見える山々の向こうにはさらに山々があって、またその向こうにもきっと山々があります。
水平線の向こうにはまだ海が続いています。
それ以上に考えることはあまりありません。
ただ、目に見えるものの向こうに、さらに遠くにも「ある」ことを感じます。

世界がどこまでも広いことも想像することはあまりありません。
意識が宇宙にまで飛んでってしまいそうだから。
だからただ目に見える1番遠く、その一つだけまた向こう、ここから見えていないところにも世界が広がっている、それだけを想像します。
見えている世界の、まだ見えない一歩だけ先です。

またその大きさを感じるのも好きです。
空はどこまでも遠く、思わず吸い込んだ息が止まります。
広い世界を体いっぱいに吸い込んで、その世界との境界をなくします。
そうやって意識を飛ばすとふと戻ってきたときに自身を、その小ささを知覚します。
しかし世界と自分との境界があるからこそ遠くというものが感じられて、それが少しうれしいです。

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山のあなた」という詩を知っていますか。
国語の教科書に載っていました。
よく授業の中で有名な詩や漢文を暗記させられたと思いますが、あまり覚えてはいないものです。
それでも心を打って、誰に言われずとも覚えている詩や一文は誰しもあるものではないでしょうか。

家に帰ってその日に覚えた漢文を言うと、母はまるで毎日読んでいるかのようにすらすらと諳んじます。
大人になってもそんなに覚えているものなのね、と思っていましたがあれはあの人の記憶力がいいだけでした。
わたしが今でも諳んじられるのはふたつみっつくらいです。
そのうちのひとつがそれです。


山のあなたの空遠く
「幸」住むと人のいふ
噫われひとと尋めゆきて
涙さしぐみかへりきぬ
山のあなたになほ遠く
「幸」住むと人のいふ


あの山の向こうのそのまた向こうに幸せがあると言う。
行っても行ってもそれはなくて、ついには帰っていく。

きっと今見える山の向こうの向こうにたどり着いたとき、そこにいた人々もまた、あの人の向こうの向こうに幸せがあるというよ、と言うのでしょう。
あるかわからない、ここからは見えないけれどきっとまた山々があるのだろうと想像できるくらいの少し遠く。
幸せが、あるかもしれないしないかもしれない。
それでもきっと今と少し違う何かがあると、または今見えるものが続いてると想像できるくらいの遠く。

わたしはこの詩が好きです。
遠くを感じる感覚とその心を少し思い出します。