泣き虫のはなし

久々に書きたいと思ったので、いつもの推敲なし一発書きなぐり。


今の恋人と付き合ってから、わたしはよく泣くようになった、という話。

うつ病時代、どんなにつらくてもどんなに苦しくても泣けなかった。泣いて、ほんの少しでもつらさが涙に溶け出して、体外に排出されればどんなにいいかと思ったけれど、体は一貫してそれをさせてはくれなかった。(話は逸れるけど、つらくて胸が苦しくなるとよく、その胸の苦しさを黒いもやもやした煙だと想像する。煙がわたしの胸のなかを充満していて、大きく息を吐き出す度に口から禍々しい煙を吐いては肺を綺麗にしていく妄想をする。)(「煙を吐く」、という好意、なんだか宗教的だと思う。祈りに似ている。)(疲れているとき、ベッドに横たわって大きな網の上で寝ている妄想もよくする。体全体から黒くてどろどろした「疲れ」がゆっくり滴って、下にぼたぼた落ちていく妄想。)(シャワーを浴びているときもそう意識すると効果的。)

逸れた。つまり精神的な黒くて体にまとわりついた「それ」を、身体的に体から切り離すということで、救われた気になりたかった。涙ってとても象徴的で、最適だし。一番そうしたいときには叶わなかったけれど。

ところがどっこい、今はどうだろう。自分でも訳のわからないタイミングで唐突にダバダバ涙が出てくる。我ながら馬鹿みたいだと思う。きっとどこか馬鹿になっている。

それはその人といるときだけなのだけれど、本当にふとした瞬間にもうだめになっている。この前の例を挙げると、その人がわたしのために美味しい珈琲を淹れている。今までどこで何度繰り返されたものなのかわたしは知らないけれど、慣れた手付きで、丁寧に珈琲を淹れている。誰かのために幾度となく珈琲を淹れた手が今、わたしのために、わたしに飲ませてくれるために買った豆を使って、昔はたどたどしかったのかもしれないけど、今、洗練された手付きで、珈琲を淹れている。無知なわたしに、昔からの習慣であろう、誰かに教えてもらったであろう、珈琲の淹れ方を教えてくれる。真剣で清廉にも見える横顔を見ている。珈琲を淹れてくれる。
そこでわたしの涙腺が決壊するわけです。

別にそのときはそんな長ったらしいこと考えちゃいないけど、ただただ、その尊さに泣いてしまう。本当に我ながら馬鹿だと思う。そのときは堪えた。ふりをした。後で思い出して泣いたけど。

何が尊いかって、時間の流れを感じるから。昔、誰かのものだった癖や、言葉や、習慣が、側にいるうちに別の誰かのものになって、知らず知らずのうちに生きている。その人が感じてきた苦しみを、通りすぎてきた痛みを、過去を、わたしが全て知ることはできない。けれど今のその人自身がその積み重ねで、結果で、世界で唯一のものだ。わたしはその人の今を好きになったけれど、その人の今まで歩いてきた道すべてを、その時々にいた過去のその人を抱き締めたくなる。痛いほどそう願う。
わたしの知らないその人が積み重ねてきた今が、今のわたしに新しい何かをもたらす。いつの間にか移っていた癖だったり、ふたりでいるからできた新しいなにかだったりする。その人のすきな仕草を真似した拙い何かであったり、ものの選び方、視線の運び方、足並みの揃え方、考え方、感じ方、知識、経験、物事の順序、見たときに思い出してしまうもの。特に、その人の歴史を感じる、わたしの知らない過去のその人が繰り返してきたであろうことが、わたしに移されたとき、途方もない喜びを感じる。過去をちょっと知れたような気になる。
それがきっとわたしも知らないところでわたしに移って、習慣になって、もしかしたらその人と別れているかもしれない未来には、すっかりわたしの一部に、血肉なっている。そして、それが誰かにまた受け継がれて、どこか遠いところで生きているかもしれない。その人が想像もしないどこかで、たんぽぽの綿毛が飛んでいくように、それが芽吹くように、あなたの一部が生きていく。命が受け継がれるような、ときの流れを感じる。

そして、未来なんてわからないし何の約束もできないけれど、五年後、十年後、同じように、真剣な顔して、わたしに珈琲を淹れてくれている、朝陽に照らされたあなたの横顔を想像する。あるかもしれない、それが何でもない日常になった、いつかの遠い未来のこと。その尊さを、途方もなさを、幸せを、想像してわたしは泣いてしまう。過去があって、今があって、今の延長線上にあるかもしれない未来がある。その時間の流れを想像して、わたしは今日も泣いてしまう。

付き合いたてはむしろ育て直しというか、過去の辛かった自分を抱き締めてもらったような気になったときにだばだば泣いていた。しかしお陰さまで割と健康になった今、そういうふとしたことで泣いてしまうことが多い。あとこの人でよかったなと思えた時とか。
メンヘラ時代からえらい成長?だと感じる。相変わらず辛いときに泣けるわけではない。でも、そのときに溢れだした感情が、本人にもコントロールできないくらいに素直に、体からも溢れだしてくる。心と体が切り離されたようなあのときとは違う。心と体の空きすぎてしまった隙間を埋めるように腕に爪を立てたり髪を抜いていた頃とは、ちょっと違う、気がする。(ごめんなさい今でもストレスあるとたまに気づいたら髪を抜いてる)
でもまあ、尊くて、ありがたいことだなあと感じるのです。ちゃんと、心と体は一緒にあるんだってこと、知らせてくれるから。 

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あと最近思うのは、メンヘラになる前は、携帯を持っていなかった。ツイ廃でもなかった。携帯を得て、人とつながる術を得て、同時に神経を麻痺させる術もまた得てしまった。つらいとき、寂しいとき、携帯がないころはどうしていただろうと考えると、そのときそのとき、その感情をしっかり手に持って、お腹に抱えて抱き締めるようにしていたなと思い出す。否定せず、ないふりもせず、大事に自分のなかでころころしていた。孤独を抱えるのが今よりも上手だった。とってもマインドフルネス。いま、ここ。
メンヘラになってからはつらすぎて、どうしようもなくて、そのときを必死にやり過ごすことばかりを覚えた。ツイッターもそのうちのひとつで、時間をやり過ごすには格好のツールだった。今はもうやり過ごさなくてもいいはずなのに、いま、ここの自分を受けとるのが下手になったと感じる。いつどこにいても同じな、思考だけのわたし。確かにそれも大事なんだけど、もっと身体性だとか、外の刺激を受けたときの感覚だとか、鈍ったこの心と体の繋がりを、いま、ここだけの自分を研ぎ澄ましていきたいなと感じる日々です。きんにく。おわり