誕生日

先日、21歳になった。
早いもんである。
去年同様、恋人のところに泊まり、特に何もせず数日穏やかに過ごした。特別なことはなにもしていない。何もしていなくてもこんなにも満ち足りている。数年前ではきっとできなかった。

数年前といえばわたしがまだ高校生あたりのことを思い起こす。まだ自分は誰からも特別に愛されることのない、誰に求めれることもない価値のない人間なのだと言う強固で今のわたしからしたら馬鹿みたいでとても切実な思い込みが、わたしの思考の基礎の基礎があった。何しろそれが大前提なので、人から愛を示してもらっても見えなかったり、うまく受け取れなかったり、そんなことあるわけないと無意識に拒絶していた。よくいう底に穴の空いたコップ状態で、いくら承認欲求を満たしてもそれを溜めておけない。
なんかまー、生きづらい。あの頃は生きづらかった。

その頃なら、もう、「祝って!祝って!わたし誕生日なの!!わたしを認めて!ここにいていいんだと言って!!!」って感じ。餓えてた。めちゃくちゃ餓えてた。でも自分でも何したいのか、何してもらいたいのかよくわかってなかった。だから満たされなかった。とりあえず餓えてた。いくらおめでとうと言ってもらっても満足しなかったし寂しかった。お金もないし、物という目に見える客観的事実でもって祝ってもらいたかった。口で伝えられる人の気持ちなんて信じられないけど、してもらったことやもらった物は事実だし。

まあなんというか、愛されたかった。愛されるってなにかわからなかったけど。端から溢れてったけど。誕生日って、特別だって思ってた。その日だけは、特別に愛されるんだと思ってた。


今は、自分が何が欲しいのかちゃんとわかっている、と、思う。
特別なことをせず二人でゆったりしたい、というのを誕生日の過ごし方に選んだ。誕生日が特別ではなくなったわけではない。特別な誕生日にそうすることをわたしが選んだ。
プレゼントはどーでもよくなった。もとろんもらったら嬉しいけど、プレゼントで人からの愛を計ったり確認したりするようなものではなくなった。なにより、わたしはもう欲しいものは大体自分で稼いだお金で買えちゃうのだ。すごい。
誰にどれだけおめでとうと言ってもらえるかも気にしなくなった。例え誰に言ってもらえなくても、わたしのこと愛してくれていないなんて思わなくなったからだ。おめでとうの数も気にせず、ただありがとうと素直に受け取って、それで何かを埋めようとすることもなく、まっすぐ眺められる。
誕生日というものに心理的余裕が持てた。ガツガツしなくなった。やだ、大人。

誕生日だけ特別に愛されるんじゃない、愛はいつもそこにあって、それをその人が生まれた記念日に改めて表すだけなんだと気づけたのだ。今更。めちゃくちゃ今更。長かった。

愛、なんて大それた言い方するけれど、わたしにとってはその人の存在を許容して、受け入れて、そこにあることを肯定的にとらえてもらうだけでも、充分に愛である。それがたくさん集まれば、わたしは、たくさーんの愛という空気に包まれて、息がしやすくなる。
何か価値を提供したとき、形に見えるように愛を示されたときだけ、存在を許容されるのだと思っていた。それがなんと、何もしていなくてもここにいていいのだと気づいてしまった。生きやすい。あらま。

最近はそんなことについても考えることもなくなってきたけど、誕生日について考えてみると改めて成長したなあと思う。
言葉が信じられなくて、行動だけが事実であり信じられるという頑固さというか臆病さは相変わらずだし、まだまだ愛を受けとるのが下手っぴだし、自分のことは好きになりきれていないし、課題はまだまだ山積み。

それでも、受動的で子供だったところは少しは大人になれたかしら。今度は与えられる人になるべく、ちょうどそんな課題も舞い込んできたので、その話はまた今度。
相変わらずの推敲なし。