感覚の話

年が明けました。また実家に帰りました。

実家はどちらかと言えば田舎で、それはまあ、空が広いです。
山も低い。
東京から高速バスに乗って数時間、低い山々の間を走ります。
その間は大概寝ています。

なのでバスを降りるとまあ空が広い。
空は水彩のような透明感で、よくこんな広さに色ムラなく綺麗に塗れるもんだと思います。

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遠くを見るのが好きです。
好きというのが正しいのかわからないけれど、海や山や空を目の前にすると遠くを見ます。
田舎で育ち、その間よく遠くを見てきました。

家から学校まで歩いて30分程、徒歩通学していた小学校時代はよく空を眺めながら帰りました。
雲が好きでした。
そして飛行機がたくさん通りました。
見つけると見えなくなるまでずっと目で追いました。
人も車も通らないのでちびが空ばかり見て歩いても特に何もありませんでした。

学校からは町を通り越した向こうに低い山々が見えました。
山には大きなゴルフ場と、ひとつ風力発電機がありました。
低くはあるけれど視界の端から端まで広がっています。
それらが低いと気づいたのは修学旅行で箱根に行ってからで、そびえる山々を見てこれが本当の山なんだわ、今まで見ていたあれは丘程度だったのねと小さいながらにショックを受けました。

家は歩いて行けるくらいには海の近くでした。
夏になるとわざわざ海水浴をしに遠くから人が来ましたが、わざわざ、と言ってしまうくらいには身近に共にありました。
湾になって波が落ち着いた、穏やかな海でした。
遠く水平線の向こうにはうっすら町が見えます。
冬晴れの日には綺麗に富士山も見えます。
寒い冬の朝に高校の渡り廊下から見えるそれは中々に贅沢でした。

来る日も来る日もそれらを見ました。

遠くを見ているとき、特に何も考えていません。
しかしぼーっとしているわけでもありません。
呼吸は深く吸い、腹に空気をため喉の奥を開いたまま止まります。
遠くの山の木の葉の一枚一枚をはっきりと見ようとしているわけではありません。
ある一点を集中して見つめているわけでもありません。
ただこのひとつの体で遠くを、世界を感じようとします。

遠く向こうの世界に頭を巡らせるわけでもありません。
きっとあの遠くの空の真下には別の街があって、人々がいて、それぞれの生活があります。
ここから見える山々の向こうにはさらに山々があって、またその向こうにもきっと山々があります。
水平線の向こうにはまだ海が続いています。
それ以上に考えることはあまりありません。
ただ、目に見えるものの向こうに、さらに遠くにも「ある」ことを感じます。

世界がどこまでも広いことも想像することはあまりありません。
意識が宇宙にまで飛んでってしまいそうだから。
だからただ目に見える1番遠く、その一つだけまた向こう、ここから見えていないところにも世界が広がっている、それだけを想像します。
見えている世界の、まだ見えない一歩だけ先です。

またその大きさを感じるのも好きです。
空はどこまでも遠く、思わず吸い込んだ息が止まります。
広い世界を体いっぱいに吸い込んで、その世界との境界をなくします。
そうやって意識を飛ばすとふと戻ってきたときに自身を、その小ささを知覚します。
しかし世界と自分との境界があるからこそ遠くというものが感じられて、それが少しうれしいです。

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山のあなた」という詩を知っていますか。
国語の教科書に載っていました。
よく授業の中で有名な詩や漢文を暗記させられたと思いますが、あまり覚えてはいないものです。
それでも心を打って、誰に言われずとも覚えている詩や一文は誰しもあるものではないでしょうか。

家に帰ってその日に覚えた漢文を言うと、母はまるで毎日読んでいるかのようにすらすらと諳んじます。
大人になってもそんなに覚えているものなのね、と思っていましたがあれはあの人の記憶力がいいだけでした。
わたしが今でも諳んじられるのはふたつみっつくらいです。
そのうちのひとつがそれです。


山のあなたの空遠く
「幸」住むと人のいふ
噫われひとと尋めゆきて
涙さしぐみかへりきぬ
山のあなたになほ遠く
「幸」住むと人のいふ


あの山の向こうのそのまた向こうに幸せがあると言う。
行っても行ってもそれはなくて、ついには帰っていく。

きっと今見える山の向こうの向こうにたどり着いたとき、そこにいた人々もまた、あの人の向こうの向こうに幸せがあるというよ、と言うのでしょう。
あるかわからない、ここからは見えないけれどきっとまた山々があるのだろうと想像できるくらいの少し遠く。
幸せが、あるかもしれないしないかもしれない。
それでもきっと今と少し違う何かがあると、または今見えるものが続いてると想像できるくらいの遠く。

わたしはこの詩が好きです。
遠くを感じる感覚とその心を少し思い出します。

飛行機

飛行機に乗っている。
20:49。
窓際の席。
遥か下にオレンジに輝くどこかの町が広がっている。

これは帰りの飛行機だけれど、実は乗るのは初めて。
初っ端から寝坊してぎりぎりのところで次の便に振り替えてもらえた。
他の人に付いていく予定だったので、なんの知識もなく初めて乗った飛行機。
焦った。
なにやら電車のように行ったらすぐ乗れるものではないらしい。
なにやら色々と受付がある。
受付のお姉さん相手にごねる。
なんとかチケットを得る。

寝坊するくらいには疲れていたので、何やら浮いた感覚がするー……と思った3秒後には寝ていた。
窓際でもなかったし。
初飛行機はそんな感じ。 

福岡に着いて、今東京に向かう便に乗っている。
夜だ。
少し曇っていて、大きな街のあたりは空がほんのり明るい。
地球は丸いんだと感じる。
大地は広い。空はさらに広い。
オレンジ色の光が道に沿って続いているのがわかる。
地上絵みたいだ。
山やら海やらはぽっかりと光がなくてそれも不思議だ。
今まであそこにいた。


あの、遠い光があるところに、人間がいる。
見えないけれど、ひとつひとつの明かりの下にその数だけ人間がいて、人生がある。

うーん、えもい。
元々ホテルとか大きなマンションとかビルに灯りが灯っているのを外から眺めるのがすきだ。
あの明かりの中に人がいる。
灯っていないところには多分いない。
オレンジの明かりの部屋もあれば青白いところもある。
たまに人間の影が見えたりする。
顔は見えない。
人間かどうかもわからない。
あの綺麗に並べられた箱の中全てに知らない時間が流れている。 
消して触れ合うことはないけど、色んな人の人生を、時の流れを、並べて一気に見ている気分。
若い人間が音楽と明るい照明の下、たくさんの人々と一瞬の瞬きのうちに終わってしまうようなきらびやかな時間を過ごしていたりするんだろう。
人生の夕暮れ時に日が沈むのを眺めているような、そんな時間を過ごしている人もいるんだろう。
四角の枠に切り取られた無数の時間を思うと、自分のもとにあった意識がふっと手放されるような気持ちになる。
そこに自分の時間の流れはない。

それの、さらにスケールがでかいバージョンだ。
飛行機というのは。 

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また逸らす。
小さい頃は空を眺めるのが好きだった。
登校や下校の間はよく遠くの空を眺めていた。
わたしはちっぽけで、空は広く遠かった。 
田舎だった。
飛行機がよく通った。 
視界に入ると、それが消えるまで目で追い、見守った。
きっとあそこには違う時間が流れている。 
そして世界はなにやら消えた飛行機の向こうまで広がっていて、もっと大きいらしかった。
時間とともに雲の形と位置が変わった。
また飛行機がくる。 

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飛行機に乗るのは初めてだが、飛行機というのはとても思い出深い。
小学生の頃、アメリカに住んでいた3つ下の従兄弟とおばさんが毎年夏休みに遊びに来た。
その時期になると車で2時間かけて空港まで迎えに行く。 
田舎から田舎への移動だった。
空港というところは大きくて、周りの何もなさから世界が一転する。 
それだけで夢のようだ。
一年ぶりの従兄弟を待つ。 
そしてひと夏を共に過ごし、その記憶を抱えながらまた一年会えない従兄弟を見送る。 
あっけない。
夢を見ていたのかもしれない。 
車で田舎へ帰る。
都心から遠のくたび民家の灯りがぽつぽつ消えていって、やがて規則的に並ぶ道沿いの電灯だけになる。
左右に均等に並ぶ光の間を抜ける。 
車のヘッドライトが照らすより先の前方は見えない。
しばらくするとまたぽつぽつ灯りが増えて現実である地元の町が見えてくる。
やっぱり夢を見ていたんじゃないかと思う。
遥か頭上に小さく光りながらゆっくり移動する飛行機を見つける。
過ぎてしまった時間を思う。
全ては過ぎて、変わっていく。
飛行機が視界から消える。

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大きいもの、は、無条件にいいと思う。 
大きいほどいい。
広ければ広いほどいい。
高いものは突き抜けて素晴らしい。
それだけで尊い。 
でかいのの何がいいかって、自分の小ささがこんなにもわかるからだ。
ただそこにいるだけで、こーーんな大きな世界の、自分なんてこーーーーーんだけなんだと、わかる。
世界の大きさを思うとき、その意識は自分にない。
わたしの意識はひろーーい宇宙のどこかに飛んでいく。
意識は自分のものではなくて、個が消えて、大きなひとつの何かの一部になる。
自分を手放す。
魂がわたしを離れて全てを外から見つめている気持ちになる。
無意識に呼吸が深くなる。
流れていった無数の時間を思う。 


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その感覚がすきであんなにそらを眺めていたんだなと今思う。 
田舎の広い空に抱かれながら生きてきた。
大きいものを見たとき、自分以外の無数の時の流れを感じたとき、自分の小ささを感じたとき、わたしはわたしを手放すことができる。

飛行機は、すごい。 
戻るけど。
世界は広く、でかい。
さっきいた街からどんどん遠ざかるのがわかる。
遥かに大きいこの世界は自分ではどうにもならないんだなと思う。
それは素敵な諦めで、何かからすこし解放された気になる。


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着陸準備のため機内の灯りが落とされた。
外がよく見えるようになる。 
ぽっかり黒く穴の空いたここがきっと海で、先に見えるあれは海岸線。
横には地平線も見える。
あの向こうにも世界が広がっている。
真下にある暗い中光る灯りはこんなにも綺麗だ。
地上が近づいてきた。
わたしもこの灯りの中のひとつになる。
また意識がわたしのもとに戻ってくる。

さよなら
おかえりー





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ナ・バ・テア

ナ・バ・テア

空を思うと思い出す。
キルドレになって空で死にたかったなあ。






現世に生きてると自分のちっぽけさ忘れがちよねという話

22:34
そしてキャリーバック引き取るの忘れてうっかりターミナル出るところだった
戻ってきて意識

泣き虫のはなし

久々に書きたいと思ったので、いつもの推敲なし一発書きなぐり。


今の恋人と付き合ってから、わたしはよく泣くようになった、という話。

うつ病時代、どんなにつらくてもどんなに苦しくても泣けなかった。泣いて、ほんの少しでもつらさが涙に溶け出して、体外に排出されればどんなにいいかと思ったけれど、体は一貫してそれをさせてはくれなかった。(話は逸れるけど、つらくて胸が苦しくなるとよく、その胸の苦しさを黒いもやもやした煙だと想像する。煙がわたしの胸のなかを充満していて、大きく息を吐き出す度に口から禍々しい煙を吐いては肺を綺麗にしていく妄想をする。)(「煙を吐く」、という好意、なんだか宗教的だと思う。祈りに似ている。)(疲れているとき、ベッドに横たわって大きな網の上で寝ている妄想もよくする。体全体から黒くてどろどろした「疲れ」がゆっくり滴って、下にぼたぼた落ちていく妄想。)(シャワーを浴びているときもそう意識すると効果的。)

逸れた。つまり精神的な黒くて体にまとわりついた「それ」を、身体的に体から切り離すということで、救われた気になりたかった。涙ってとても象徴的で、最適だし。一番そうしたいときには叶わなかったけれど。

ところがどっこい、今はどうだろう。自分でも訳のわからないタイミングで唐突にダバダバ涙が出てくる。我ながら馬鹿みたいだと思う。きっとどこか馬鹿になっている。

それはその人といるときだけなのだけれど、本当にふとした瞬間にもうだめになっている。この前の例を挙げると、その人がわたしのために美味しい珈琲を淹れている。今までどこで何度繰り返されたものなのかわたしは知らないけれど、慣れた手付きで、丁寧に珈琲を淹れている。誰かのために幾度となく珈琲を淹れた手が今、わたしのために、わたしに飲ませてくれるために買った豆を使って、昔はたどたどしかったのかもしれないけど、今、洗練された手付きで、珈琲を淹れている。無知なわたしに、昔からの習慣であろう、誰かに教えてもらったであろう、珈琲の淹れ方を教えてくれる。真剣で清廉にも見える横顔を見ている。珈琲を淹れてくれる。
そこでわたしの涙腺が決壊するわけです。

別にそのときはそんな長ったらしいこと考えちゃいないけど、ただただ、その尊さに泣いてしまう。本当に我ながら馬鹿だと思う。そのときは堪えた。ふりをした。後で思い出して泣いたけど。

何が尊いかって、時間の流れを感じるから。昔、誰かのものだった癖や、言葉や、習慣が、側にいるうちに別の誰かのものになって、知らず知らずのうちに生きている。その人が感じてきた苦しみを、通りすぎてきた痛みを、過去を、わたしが全て知ることはできない。けれど今のその人自身がその積み重ねで、結果で、世界で唯一のものだ。わたしはその人の今を好きになったけれど、その人の今まで歩いてきた道すべてを、その時々にいた過去のその人を抱き締めたくなる。痛いほどそう願う。
わたしの知らないその人が積み重ねてきた今が、今のわたしに新しい何かをもたらす。いつの間にか移っていた癖だったり、ふたりでいるからできた新しいなにかだったりする。その人のすきな仕草を真似した拙い何かであったり、ものの選び方、視線の運び方、足並みの揃え方、考え方、感じ方、知識、経験、物事の順序、見たときに思い出してしまうもの。特に、その人の歴史を感じる、わたしの知らない過去のその人が繰り返してきたであろうことが、わたしに移されたとき、途方もない喜びを感じる。過去をちょっと知れたような気になる。
それがきっとわたしも知らないところでわたしに移って、習慣になって、もしかしたらその人と別れているかもしれない未来には、すっかりわたしの一部に、血肉なっている。そして、それが誰かにまた受け継がれて、どこか遠いところで生きているかもしれない。その人が想像もしないどこかで、たんぽぽの綿毛が飛んでいくように、それが芽吹くように、あなたの一部が生きていく。命が受け継がれるような、ときの流れを感じる。

そして、未来なんてわからないし何の約束もできないけれど、五年後、十年後、同じように、真剣な顔して、わたしに珈琲を淹れてくれている、朝陽に照らされたあなたの横顔を想像する。あるかもしれない、それが何でもない日常になった、いつかの遠い未来のこと。その尊さを、途方もなさを、幸せを、想像してわたしは泣いてしまう。過去があって、今があって、今の延長線上にあるかもしれない未来がある。その時間の流れを想像して、わたしは今日も泣いてしまう。

付き合いたてはむしろ育て直しというか、過去の辛かった自分を抱き締めてもらったような気になったときにだばだば泣いていた。しかしお陰さまで割と健康になった今、そういうふとしたことで泣いてしまうことが多い。あとこの人でよかったなと思えた時とか。
メンヘラ時代からえらい成長?だと感じる。相変わらず辛いときに泣けるわけではない。でも、そのときに溢れだした感情が、本人にもコントロールできないくらいに素直に、体からも溢れだしてくる。心と体が切り離されたようなあのときとは違う。心と体の空きすぎてしまった隙間を埋めるように腕に爪を立てたり髪を抜いていた頃とは、ちょっと違う、気がする。(ごめんなさい今でもストレスあるとたまに気づいたら髪を抜いてる)
でもまあ、尊くて、ありがたいことだなあと感じるのです。ちゃんと、心と体は一緒にあるんだってこと、知らせてくれるから。 

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あと最近思うのは、メンヘラになる前は、携帯を持っていなかった。ツイ廃でもなかった。携帯を得て、人とつながる術を得て、同時に神経を麻痺させる術もまた得てしまった。つらいとき、寂しいとき、携帯がないころはどうしていただろうと考えると、そのときそのとき、その感情をしっかり手に持って、お腹に抱えて抱き締めるようにしていたなと思い出す。否定せず、ないふりもせず、大事に自分のなかでころころしていた。孤独を抱えるのが今よりも上手だった。とってもマインドフルネス。いま、ここ。
メンヘラになってからはつらすぎて、どうしようもなくて、そのときを必死にやり過ごすことばかりを覚えた。ツイッターもそのうちのひとつで、時間をやり過ごすには格好のツールだった。今はもうやり過ごさなくてもいいはずなのに、いま、ここの自分を受けとるのが下手になったと感じる。いつどこにいても同じな、思考だけのわたし。確かにそれも大事なんだけど、もっと身体性だとか、外の刺激を受けたときの感覚だとか、鈍ったこの心と体の繋がりを、いま、ここだけの自分を研ぎ澄ましていきたいなと感じる日々です。きんにく。おわり

誕生日

先日、21歳になった。
早いもんである。
去年同様、恋人のところに泊まり、特に何もせず数日穏やかに過ごした。特別なことはなにもしていない。何もしていなくてもこんなにも満ち足りている。数年前ではきっとできなかった。

数年前といえばわたしがまだ高校生あたりのことを思い起こす。まだ自分は誰からも特別に愛されることのない、誰に求めれることもない価値のない人間なのだと言う強固で今のわたしからしたら馬鹿みたいでとても切実な思い込みが、わたしの思考の基礎の基礎があった。何しろそれが大前提なので、人から愛を示してもらっても見えなかったり、うまく受け取れなかったり、そんなことあるわけないと無意識に拒絶していた。よくいう底に穴の空いたコップ状態で、いくら承認欲求を満たしてもそれを溜めておけない。
なんかまー、生きづらい。あの頃は生きづらかった。

その頃なら、もう、「祝って!祝って!わたし誕生日なの!!わたしを認めて!ここにいていいんだと言って!!!」って感じ。餓えてた。めちゃくちゃ餓えてた。でも自分でも何したいのか、何してもらいたいのかよくわかってなかった。だから満たされなかった。とりあえず餓えてた。いくらおめでとうと言ってもらっても満足しなかったし寂しかった。お金もないし、物という目に見える客観的事実でもって祝ってもらいたかった。口で伝えられる人の気持ちなんて信じられないけど、してもらったことやもらった物は事実だし。

まあなんというか、愛されたかった。愛されるってなにかわからなかったけど。端から溢れてったけど。誕生日って、特別だって思ってた。その日だけは、特別に愛されるんだと思ってた。


今は、自分が何が欲しいのかちゃんとわかっている、と、思う。
特別なことをせず二人でゆったりしたい、というのを誕生日の過ごし方に選んだ。誕生日が特別ではなくなったわけではない。特別な誕生日にそうすることをわたしが選んだ。
プレゼントはどーでもよくなった。もとろんもらったら嬉しいけど、プレゼントで人からの愛を計ったり確認したりするようなものではなくなった。なにより、わたしはもう欲しいものは大体自分で稼いだお金で買えちゃうのだ。すごい。
誰にどれだけおめでとうと言ってもらえるかも気にしなくなった。例え誰に言ってもらえなくても、わたしのこと愛してくれていないなんて思わなくなったからだ。おめでとうの数も気にせず、ただありがとうと素直に受け取って、それで何かを埋めようとすることもなく、まっすぐ眺められる。
誕生日というものに心理的余裕が持てた。ガツガツしなくなった。やだ、大人。

誕生日だけ特別に愛されるんじゃない、愛はいつもそこにあって、それをその人が生まれた記念日に改めて表すだけなんだと気づけたのだ。今更。めちゃくちゃ今更。長かった。

愛、なんて大それた言い方するけれど、わたしにとってはその人の存在を許容して、受け入れて、そこにあることを肯定的にとらえてもらうだけでも、充分に愛である。それがたくさん集まれば、わたしは、たくさーんの愛という空気に包まれて、息がしやすくなる。
何か価値を提供したとき、形に見えるように愛を示されたときだけ、存在を許容されるのだと思っていた。それがなんと、何もしていなくてもここにいていいのだと気づいてしまった。生きやすい。あらま。

最近はそんなことについても考えることもなくなってきたけど、誕生日について考えてみると改めて成長したなあと思う。
言葉が信じられなくて、行動だけが事実であり信じられるという頑固さというか臆病さは相変わらずだし、まだまだ愛を受けとるのが下手っぴだし、自分のことは好きになりきれていないし、課題はまだまだ山積み。

それでも、受動的で子供だったところは少しは大人になれたかしら。今度は与えられる人になるべく、ちょうどそんな課題も舞い込んできたので、その話はまた今度。
相変わらずの推敲なし。

輪郭


す、推敲なんてしない

学校もなく引きこもっていると、頭の中を細々としてとりとめなのないことがぐるぐるぐるぐる巡っている。ぱっと思い付いたことだったり、悩んでいることだったり、昔聞いた歌だったり。自分の意思では止められず、人から見たらなにもしていないように見えてもびっくりするくらい頭だけ働いている。だからと言ってなにかひとつのものに対して集中できるわけでもない。非常に面倒な状態である。頭に流れる音楽を、止めたくても自分の意思で止めることもできない。うるさい。
概ねそんな感じで病んでいくので、わたしは外から強制されるもので外にでる用事ができると大変健康になる。めんへらに引きこもりはよくないね。学校がない長期休みなんて大抵抑うつで、一歩も外にでない日が何日も続く。どうせ瞼は閉じても目は見続けることをやめられないのなら、考えることをやめられないのなら、何かお題をちょうだい。意味あることを考えさせて。何かを外に吐き出させて。わたしに仕事をくれ。用事を、遊びの約束をくれ。やらなきゃいけない限りやります。やってもやらなくてもいい、あなたの意思で決めてなんて言わないで。わたし以外の人がそこにいるなら、なんでもやるから。自分だけのために動くことがどうしてもできないから。忙殺されにいこう。書を捨てよ、外に出よう。ついでに筋トレをしよう。

 


ぐるぐるしていたこと
ただの吐き出しです

人は外と差異を感じることで自分の形を認識する。五感を閉じたらどこからどこまで自分でどこからが自分でないのかわからないのでは。自分と同じ温度の空気のなかにいたら、温度という概念すらも理解できないかもしれない。冷たい外気に晒され、初めて自分自身の温度を認識する。目で見て、触れて、自分と自分以外のものがわかる。自分の形が、大きさがわかる。人に触られる。自分の輪郭を外から確認する。時には自分の内側から自分を知覚する。自分の内面を感じる。そしてよりはっきりと自分の輪郭がわかる。
他者を知ることは自分を知ることで、自分の知覚する世界はより広くなっていく。途方もなくて、また自分というものがわからなくなる。五感を全て閉じて、暗闇のなかで、たまにはわたしも世界に溶け込みたい。この世界の中の全のなかの個として、浮上しては、また沈む。















つまり寝たいってこと







湯槽

わたしにとって湯槽の中はひらめきと想像の場所なのだなあとしみじみ思う。今いる。湯に包まれ、体温が上がり、血が巡り、意味もない様々なことが頭のなかを行ったり消えたりする。

今日は昔のことを思い出した。今でも時々思い出す母との思い出だ。夜仕事な母が唯一休みの日曜日、母と一緒にいられる数少ない夜のひとつだった。小学生の頃だ。あのとき住んでいたふるーい家が懐かしい。夕飯のあと、母が『アルジャーノンに花束を』という本の話をしてくれた。小学生のわたしにもわかるように、あらすじをわかりやすく、丁寧に。母の語り口はまさに聞かせるためのものであり、話す速さや間の取り方、声の抑揚、台詞も聞いていてとても楽しい。その頃からだが、今でも小学校に出向いて朝のホームルームで読み聞かせをしている。昔から、娘もびっくりなパワフルなおばさんである(今年で51歳になるが根底ではわたしは母をおばさんだなんて一回も思ったことはない)。よく人を引き付ける話し方が身に付いている。いつものようにそれに聞き入っていた。最後の母の「台詞」が終わったあと、わたしはとても感動していた。ああ、アルジャーノン。ハッピーエンドばかり読みなれていた小娘には少し切ない終わりだった。今でもあのとき興奮したことは覚えている。

数年後、中学に上がってから本屋をうろちょろしていたとき、その本の文庫本を見つけた。もちろんずっと覚えていたから、二千円程度のおこずかいでも中身もチェックせずよろこび勇んで買った。(家にもあるとも知らずに)(BOOK・OFFにいけば100円程度で買えるとも知らずに)
新しい本ばかり求めていたわたしは書き口がちょっと古いなと思いつつも読んだ。母に「へえ  そこ(わたしの勉強机の真横の本棚)にあるのに」と言ってきて心くじかれながらも読んだ。


感想は、うん、そっか。
母からストーリーや結末を聞いていたから感動が薄れたのか、なんなのか。そのときのわたしには期待ほど響くものはなく、あーあ(中学生のおこずかいから出すには)高かったのに、で終了した。(今からすると読んでおいてよかった)

思い出してみると、わたしは、本のストーリーでなく、それを熱心に語る母の、感情が、本をそう感じた心がすきだったんだ。当時母の彼氏≧本>>>>>>わたしというヒエラルキーのもと生きてきたわたしにとって、例え本のことにでも熱心に心を注ぐ母の姿が、それを人に伝えようとする感情が、それにどう思い、どう感動したのかひしひしと伝わってくる母の語り口調が、すきだったんだ。興味関心を注がれていない(と思っていた)からこそ、生の感情が嬉しかったんだ。

ほんとはあのときの感動の涙は、そういうことなんだよって言ってみたいような……





(今からすれば本当に昔、人のことのように思える思い出の話でした。
しょっぱなからめんへらかっ飛ばしてしまってもにょもにょ)

アルジャーノンに花束を (ダニエル・キイス文庫)

アルジャーノンに花束を (ダニエル・キイス文庫)

まばたきをしない

勢いに任せてブログを始めてみた。特に伝えたいことはないのだけれど、書きたいことや書きたい気持ちはある、気が、する。自分の意思に鈍いのはわたしの常である。ツイッターの140文字にすっかり慣れきってしまったこの指も、たまには意味のないことをつらつらと書き連ねて感覚を掴むことはこれから役に立ちそうだし。


わたしは、自分の意思に問題から、逃げている。目をそらしている。考えないようにしている。不甲斐なくて、でも傷つきたくない。痛いのはすきではない。考えていても仕方ない。行動するしかない。まずはなにをすればいいのか、わかっている。目を、そらしている。
ぼーっとする、部屋を見渡す。ちょっとずつ開いたチェスト、昼間なのにつきっぱなしのキッチンの明かり、床に置いたフライパン。どうやらわたしはここにいる、ぼーっとする。足りないものについて考える。気力、意思、体力、その他もろもろ。ぼーっとする。


後悔をしている。後悔とも言えない、無感動な諦めにも近いなにか。絶望はしない。わたしは生きている。今も頬にあたる毛布が優しい。今すぐにでも、ベッドから降りようと思えば、降りられるのだ。わたしはベッドから降りられる。洗い物を片付けることができる。部屋を片付けることもできる。やろうと思えば、近所のケーキ屋にチーズケーキを選びに行くことだって、できる。でも、まだしていない。
何も考えられない。認識できない。目は役に立たない。


わたしはきっと今日中に洗い物をするだろう。いや、する。部屋も、それなりに片付けるだろう。掃除機だってかける。描きかけの絵だって描く。のろくても、お風呂に入って、寝る。外には出ないかもしれない。言ってしまえばどうとでもなる気がしてくる。だって今すぐにでも、できる体が、わたしにはある。淡い諦めも、なんでもないような気がしてくる。きっとどうにでもなる。何もできなくは、ない。


遠い、どこかを、思い浮かべる。天井の隅にでも吸い込まれて、別のどこかへいく。広がる山と、田と、夏の光と、田の水の上をかける少しひんやりした風と、濃い影。そこにいたときの、そのときの心を、再現してみる。そのとき「わたし」はいない。ただそのまま受け取り感じる心がある。過剰だったり婉曲したりしない、そのままを、受け取ろうとする。理解など、しない。世界は、わたしを取り囲み、全方向に広がっている。わたしの後ろにも世界がある。もうこれ以上世界を吸い込めない。肺の容量に限界があるように、わたしは、いっぱいに世界を吸い込んだまま、世界の一部しか取り込めないまま、静止する。まだ溶けない。まだ、世界に溶けはしない。





ぜーんぶ、お布団の中の出来事